もう少し、もう少しと、
諦めずに頑張っていたら、ここまで来ていた。
左手が思うように動かせなくなり、
やがて5本の指がくっついてまったく利かなくなって困っていた
中川郁子さんは、新進気鋭の竹下幸男先生と出会い、
共に粘り強く治療を続けていくことで、
当初の期待を超えるほどの成果を目の当たりにします。
左手が利かない。
これって歳のせい?
今年76歳の中川郁子さんが初めて左手に異変を感じたのは、今から12年ほど前のことでした。当時は会社の経理部に籍を置き、お金を数えたり計算するのが仕事だった中川さんは、左手がうまく動かせなくなって困ってしまいます。最初は「歳のせいかな?」と思ったそうですが、しばらくたっても改善しないので、どこかで診てもらおうと、整骨院を訪ねました。
その整骨院で「整形外科で診てもらっては?」と勧められて整形外科へ。しかしそこでは「これは私の手には負えません。お金はけっこうですから、別の病院で診てもらってください」と言われて驚きます。「お金はけっこうですって、どういうこと?何かたいへんな病気なの?…って、とても不安になりました」と中川さん。さらに別の整形外科を受診しましたが、レントゲンでも異常は見つからず、病名も分からないままに様々な治療を試みることに。それでも症状はいっこうに改善しませんでした。
やがて大学病院への紹介状を書いてもらい、山口大学医学部の整形外科を受診。そこで3ヶ月ほど診てもらった後に、今度は同大学病院の脳神経内科へ。そしてここでの検査入院で初めてCIDPと診断されます。64歳で異変を感じてから、4年の歳月が流れていました。
なんで私が、こんな病気に?
確定診断された時のことを中川さんは、「最初に『難病です』って言われたんですけど、全然ピンと来なくて、『え?私が難病?…』って。CIDPと言われても何のことか全然わからないし、日本語で言われても長くて覚えられない。だから友達から『何ていう病気だったの?』って聞かれても、ちゃんと答えられない。『何で私が、こんな病気に?』って思いましたね」と回想します。
4年前に初めて「動かしづらい」と感じた左手は、この頃には5本の指が完全にくっついてしまい、まったく動かせない状態になっていました。「朝起きて顔を洗おうにも、猫みたいに片手で撫でることしかできないんですよ。着替えも、片手ではファスナーとかボタン掛けが難しくてすごく時間がかかる。お料理も、例えばお野菜をカットするにも、右手で包丁は持てるんですけど、左手でお野菜を固定させることができないから、切れないんですよね」。
中川さんがCIDPと診断されて間もなく、主治医として中川さんを診ることになったのが、ちょうどアメリカ留学から帰国したばかりの竹下幸男先生でした。やる気に満ちていた竹下先生でしたが、帰国後初めてのCIDP患者さんとなる中川さんを初め診た時には、正直これは難しいかな、とも感じたといいます。
「萎縮した左手は、ただ付いてるだけっていう状況でまったく何もできない。動かせない上に筋肉の萎縮が進んでいて、それは末梢神経障害としては末期に近い状況でした。これ以上悪くはさせないぞ!とは思いつつも、当時はまだ維持療法も確立されていませんでしたから、果たして手持ちの武器だけでこの患者さんをどこまで良くしていけるのか?…という不安はありましたね」。それから二人は、3ヶ月に1回の通院治療をスタートさせます。
半年後、治療の効果が現れ始めた。
難病と言われて驚き、落ち込んだ中川さんでしたが、一方で、病名がわかったからには、何か治療法もあるだろうという期待感も生まれたといいます。
「私は、前より少しでも良くなるように、とにかく頑張ろう!って思ってました。だから治療の日に絶対キャンセルしないようにって。風邪をひいたり体調を崩したりしてキャンセルすることなく、絶対治療を受けに行くんだ、治療を続けるんだって思ってましたね」。
しかし、そんな中川さんにとっても治療は大変だったそうです。初めのうちは2日間にわたって集中的に点滴する治療を行ったのですが、点滴の速度が遅いので6時間くらいかかり、朝の9時に始めても、帰るのは3時や4時になったといいます。「大変でしたけど、これも私の仕事なんだって思うことにして。我ながらけっこう頑張りましたね」。
当初は「これ以上悪くならないように」を目標として治療をスタートさせた竹下先生と中川さんでしたが、やがて維持療法が使えるようになると、竹下先生は果敢に挑みます。「比較的高齢なので大丈夫かな?という心配もありましたが、左手さえ動けば、そして何かを握ることさえできるようになれば、中川さんのADL(日常生活動作)はかなり改善するだろうという読みはありましたので、まずは半年から1年続けてみて、それで良くなるかどうかを見ましょうと。で、やってみると初めの数ヶ月はあまり変わらなかったんですけど、そこから目に見えて変わってきたんですよ」。
当時のことを中川さんは、「私は、先生の治療方針をちゃんと理解できてはいなかったと思いますけど、とにかく先生のことを信頼していますから、もう先生に言われた通りに頑張ろう、と。こんな病院で診てもらえて、しかもこんな素晴らしい先生に出会えて、本当に私は恵まれているなと思いながら…」と振り返ります。そして維持療法を始めて半年が過ぎた頃に、こんなことが。
「私はテレビを見ててもしょっちゅう手を触る癖があるんですけど、ある時『あれ?これ、手が開いたよ!』って。指がくっついてたのが離れるようになって、指先が少し開くようになったんですよ。それで『あ、これは少しずつよくなってるんじゃないかな?』って思ったりして。『もう少し、もう少し』って思いながら、ここまで来ましたね」。
中川さんの手が開くようになった時には、自分も思わず興奮してしまったという竹下先生は、これまでの治療を振り返って、「中川さんとの出会いは、私にとっても大きなものでした。今のところ治療がうまくいっていて、目に見えて患者さんの状態が良くなっている。しっかり考えて病態に合った治療を粘り強くやると、こんなにも良くなるんだということを、強く思わせてくれましたね」。そんな中川さんへの治療はまた、他の患者さんの治療にも生かされていると竹下先生は言います。他の患者さんに同じように治療すると、同じように良くなるのがうれしくて、思わず同僚やMRさんにまで報告してしまうのだそうです。
さらに先生はこんなことも。「私は半分は研究者です。ですからしっかり原因を捕まえて、それに即した治療をするというのをポリシーにしています。あと、ちょっとキレイごとを言いますと、患者さんにはしっかりそこを説明して、一緒に理解していただいた上で進めていくことを重視しています。新しい治療には、まだよく分かっていないこともあるわけで、患者さんに不自由を強いることもあります。そういった部分も伝えて理解していただかないと、患者さんについて来ていただけませんから」。
こんなに良くなるなんて!
いつまでも今の状態でありたい。
中川さんに、「これから先、どうなりたいですか?」とお尋ねすると、こんな答えが返ってきました。「今よりも悪くならないようにしたい、というのが一番ですね。だってこんなに良くなるとは思っていませんでしたから。CIDPは普通、両手両足の病気って言われています。それが私の場合左手だけなので、利き手の右手でなくてよかったというのはありますけど、一方で、右手が悪くなったり足が悪くなったりしたらどうしよう?っていう不安はずっとありました。今も思ってます。だからこれ以上悪くならない、というのが望みですね」
最後に竹下先生に、「今後CIDPに、どのように取り組んでいかれますか?」とお尋ねしました。
「CIDPには、現時点でいくつかの治療法があります。ただ末梢神経障害というのは、治るまでにどうしても時間がかかってしまう。少なくとも半年くらいはかかります。我々は専門ですから半年待ちますけど、専門じゃないドクターがそれを診た場合、半年まではなかなか待てません。本当は効くはずの治療も、1〜2ヶ月で効果があがらなかったらやめて放置されるというケースもあると思いますので、全国のドクターに伝えていければという気持ちもありますね。また、私は臨床医であると同時に、新しい治療を作っていく研究者でもありますので、さらに画期的な治療を生み出していきたいという気持ちもあります」。
よく通る声で熱く語る竹下先生と、丁寧に言葉を選びながら静かに語る中川さん。一見、相容れないようにも思える個性を持ちのお二人ですが、CIDPを治したいという共通の目標に向かって心を一つにして歩むことで、みるみる症状を改善させていきました。
それは、中川さんが心から竹下先生を信頼していたからこそ、そして竹下先生がその信頼に応えるべく徹底的に考えて治療を続けたからこそ勝ち得た成果。お二人のお話から、主治医と患者さんの信頼関係と粘り強い治療がいかに重要か、あらためて痛感させられました。
中川 郁子さんに学ぶ「あなたの治療のヒント」
私は本当に先生に恵まれて、ここまで来れたと思うんですけど、ここにたどり着かないで終わっている人もたくさんいらっしゃると思います。だから諦めないでほしいんです。私は諦めないで、もう本当にしがみついて来ましたから。諦めなかったからここまで来れたので。皆さんも「もう少し、もう少し」と思って、諦めないで頑張っていただきたいですね。
竹下先生からの「ワンポイントアドバイス」
CIDPは今、新しい治療法がどんどん出てきているという状況にあります。時間はかかりますけど、正しく治療すれば良くなる疾患になって来ていますので、どうか諦めずに、ドクターに尻込みせずに、疑問に思うことがあればちゃんと聞いていただいて一緒に歩んで行ってもらえればと思います。治療というのは、患者さんがついて来ないと成立しませんし、患者さん任せでも成立しません。それこそ二人三脚ですよね。仲良くとは言いませんけど、お互い信頼関係を持って治療を続けていただけたらと思います。これからも新しい治療ができてくると思いますから、どうか諦めずに治療を続けていただきたいですね。
(取材日:2021年11月5日)